2015年の9月に与党が国会で強行採決を行った、安保法制=戦争法の違憲無効を求め、全国で「安保法制違憲訴訟」が行われています。

私が暮らす群馬県でも、安保法制違憲訴訟が行われています。

12月6日に第2回目の口頭弁論期日があり、私も傍聴に行ってきました。

120名以上の傍聴希望者がいたらしく、残念ながら抽選で私は傍聴券はゲットできませんでした。ということで、法廷に立つ弁護団と原告による報告会場で待つことに。

ここで私は貴重なお話を聞くことができました。
この日に法廷に立つ予定のない原告の方が、私たちに戦争当時の話をお話してくださいました。

1人は旧満州で暮らした幼少期に目にしたこと、2人目は前橋空襲で火の手から逃げたときの経験、3人目は沖縄の問題についてでした。

実際の戦争体験は、本当に重く貴重なものばかり。
戦争体験者の数だけ、戦争体験があります。

ここで書きたいのは、前橋空襲の体験です。

この原告の方は、幼少期前橋市内中心部にある表町という町に家族で暮らしていました。
前橋空襲が起きたのは1945年8月5日ですが、米軍は前日だか事前に予告のビラを前橋市内に投下したそうです。
当時の家には、みんな空襲に備えて手彫りの防空壕があったそうです。
空襲のときは、とても手彫りの防空壕じゃ耐え切れないと当時12歳だった原告の方は、当時5歳の弟と妹さんを両手に引っ張って市内はずれの六供町というところへ走って逃げたそうです。市内中心部から南へ3km~5kmくらいでしょうか。

米軍機が飛来したときの焼夷弾の落ちる音、市内が赤く燃え上がる情景、「助けて」と声をかける女性のお話など、生々しいはなしでした。焼夷弾によって燃え盛る火の手は、瞬く間に市内を火の海にしていったそうで、原告もひたすら逃げることで精一杯でした。あまりの怖さに弟も妹も泣いていたそうですが、無理やる2人の手を引っ張って走り続けたそうです。

翌日、空爆が落ち着いて自宅に帰ると、自宅は消失していたそうです。
家を守ると家に残った父親は生存していたそうです。

近所の家の手彫りの防空壕にのこされた、たくさんの焼死体を見たそうです。

前橋空襲では、535名が犠牲になったそうです。

この方のほかにも、利根川に流れる遺体の話など色んな話を聞きます。

自分は戦争を知らない世代なので、可能な限り戦争体験者の声を聞き、次世代に伝え「戦争だけはだめ」という問題意識を未来につないでいく責任があると痛感しました。

いま安倍政権が進めていることは、安保法制=戦争法で戦争する国づくりにひた走って、次は憲法改正で自衛隊の海外での戦争を認めようという、文字通りの「海外で戦争するための国づくり」です。

平和憲法をしっかりこの国の政治に生かして、世界の平和に役立つことがこの国の指名ですが、安部政権の行いはまったく逆行しています。

安倍政権による改憲ノーの3000万署名をなんとしても集めきって、憲法改正の発議を許さない、安保法制違憲訴訟に勝利して安保法制を葬り去るためにも、私たちはもっとたくさんのことを学んで、立場や思想の違いを超えて色んな人と協力して、知恵もつけて、工夫もした戦略をもって望んでいくことが必要です。

ぜひ署名に協力してください。署名をたくさんの方に広げてください。