釜山の海雲台からバスで40~50分、蔚山市に入ったあたりに西生浦倭城という日本式の城があります。
文禄・慶長の役で加藤清正が築いた城です。

いまは主に石垣が残っていますが、韓国に残る倭城の中でも保存状態がよく、江戸時代の「見せる城」ではなく実践使用の山城として学術上も価値のある城です。加藤清正の築城ならではの、高くそりあがるような石垣の構造も見事なものでした。

西生浦倭城は、1593年に加藤清正が築城しました。1594年の文禄の役の和平交渉はここで行われました。
1597年に慶長の役が始まると、再び加藤清正がここに入り、出撃拠点としました。清正が、全羅道や忠清道方面を攻めていたときは浅野幸長が在番となったそうです。明の参戦で朝鮮の戦局が好転し、蔚山城が包囲され、加藤清正が明朝連合軍を撃退すると、加藤清正は蔚山城の守備に回り、毛利吉成、次いで黒田長政が在番となったそうです。

最後は、黒田長政が在番の時代、秀吉が志望し西生浦倭城から撤収し、最後は明の真貴将軍が入場しました。

安土・桃山時代の築城技術がよくわかるそうです。倭城には、日本語ガイドもいてとても親切に日本式倭城の案内や加藤清正が築いた熊本城との比較などで説明してくれました。

”진하(ジナ)”という名前のバス停で降りると、左側に小高い丘陵が見あります。
丘陵の上のほうに、石垣らしきものが見えるのでわかりやすいとは思います。このあたりは、西生浦倭城の南門付近です。

生活道路に沿って石垣がめぐらされています。日本式の石垣なのですぐにわかります。

城壁に沿って道なりに登っていくと、主郭部の大手口に突き当たります。
ここから先は、国内の城ではなかなかお目にかかれない、見事な実践向け石垣と城郭が構築されています。

小さな曲輪も随所にめぐらされています。

かなり長距離に複雑に城壁がめぐらされていました。
ようやく本丸に到着しました。この城は、かつては天守閣もあったと考えられているようです。

実はここからが見事な石垣天国なんです。まずは西門

北門

そして馬だし曲輪のあたりにあった、将軍水とかかれたところ。
慶長の役の末期、倭軍は戦局不利になり蔚山城の攻防戦が始まった頃には、2つの虎口はふさがれて、城の守りを固めたようです。

かなり複雑に石垣が構築されている様子がわかると思います。階段もきれいに残っています。

真ん中の斜めに線状の亀裂を境に右側が、修築工事の名残になっています。

刻印石も発見しました。これが一番きれいに「金」と言う字が彫られていました。
2つの刻印石が当時のものであるか、現在のいたずらかは現地にいたボランティアガイドの方も「よくわからない」ということでした。次に左側が「福」、右側が「豊」・・・どういう意味でしょうか

丸い投石用の石が埋まっています。敵が城に接近したときの供えですね。
慶長の役の末期の窮状がうかがえるようです。

山城を下山すると、海底奇岩のようなものが出ている場所がありました。
ここは、かつて船着場があったようで、西生浦倭城は海運と連携していた様子が伺えました。

と言うことで、西生浦倭城の見学は無事に終わりました。
丘陵に添った形で、これだけ巨大な城をよく作ったなという感想でした。加藤清正というと高い城壁に防衛に優れた反りあがった構造の石垣が有名ですが、西生浦倭城ではこの形式の石垣が随所に構築されていました。

天下泰平の江戸時代が来る以前の日本式城郭が今も幾つか残されていますが、ここに西生浦倭城は変に観光客向けの手入れは去れず、純粋に史跡見学に適した保存方法をとっていたので非常に見ごたえがありました。